灯の徒然ごと

主にBLのことについて
書いたり描いたりしたいです( ´ ▽ ` )
基本的には物書きです*
時々投稿などもしていけたらなぁと。
初心者ですゆえ、よろしくお願いします。

せっかくなので物語をば

こんばんは。


物語を置かないのも何なので、

少し前に書いた物語の「起」を置いておきたいと思います。

攻の書き方に自身の力不足を感じたため、停止させているものなのですが……(練りこみ不足とも言えそうですね)


タイトルは『マイディア 崩壊』

前後作にするつもりでしたので、こういうタイトルです。タイトルからも薄々感じられるかもしれませんが、切ない系です。


よろしければ、どうぞ*




『僕をみて』

決して口にはできない願いが、今日も心に満ちて、僕の心を深く深く抉っていく。

『シノ』

……違う。

『シノ』

…ちがう。

『シノッ!』

チガウ!

僕は『シノ』じゃないっ‼︎

そう叫べたらどれだけいいだろう。

そう出来れば僕の瑕は血を流さなくなりそうなのに。血に塗れた両手で顔を覆って涙を隠すことも、嗚咽を噛み殺す必要もなくなりそうなのに。

でもそんなこと出来ない。

出来ないんだ。

僕は弱い生き物だから。

でもそんな僕より、彼は弱ってしまっているから。

だから僕は微笑う。

血を流し続ける瑕(こころ)なんて、見ないふりをして。

そうすればほら、彼は幸せそうに笑うから。



ユキの世界は、哀しみと暴力に満ちていた。

思い出せる最初の記憶は、荷物と酒瓶が好き放題に辺りに散らかった狭い畳の部屋の中で、鬼のような顔をした男に涙で化粧をドロドロにした女が縋りついている所。

女は憐れなほど裏返った声で叫んでいた。

何を言っていたかは定かではないが、恐らくは『捨てないで』などの懇願の類であったのではないかとユキは思っている。

しかし男は憐れな女の姿など見飽きたと言わんばかりに、鬱陶しげに眉を寄せ、脚に縋り付く女の、染めすぎて傷んだパーマの金髪を無造作に掴み、引き剥がす。

そして酒臭い息を辺りに撒き散らしながら暴言を吐くのだ。

女は髪を引っ張られる痛みにまた金切り声をあげ、男はその声に苛立ち更に女に手をあげる悪循環。

ユキはただ襖の陰で息を殺し、三角座りをして恐怖に震える身体を抱え込む。

誰も幼いユキを恐怖からは護ってくれない。

抱きしめてくれない。

だから自分で抱きしめるのだ。

それがユキの世界で、ユキの父と母だった。



今日もまた、夜が来る。

ユキはだんだんと暗さを増す部屋の中を、三角座りの体勢のままぼぅ、と眺めていた。

電気は点いていない。

ユキに電気を点ける権利はないからだ。

持っているのは父と、もう随分前に出て行ってしまった母だけ。

もっとも、電気を点けたところでこの部屋の惨状が浮かび上がるだけなのだが。

日没後と夜の帳が完全に降りる狭間の、どうしようもなく人を不安にさせる薄暗い部屋の中、それでも分かる畳の上に転がった酒瓶や雑誌、汚れたまま放置された洗濯物。

流し台に山積みになった汚れた食器や、プラスチックの弁当箱。

部屋に充満する腐った残飯の饐えた臭い。

そこから湧き出したのか、それとも臭いにつられてやってきたのかは分からないが、そこらじゅうを飛び交うハエの羽音。

どれもユキには馴染んだものだ。

いや、馴染まなければどうしようもなかったというべきか。

父はユキが部屋を、いや、自分の所有物を動かすことを許可しなかった。たとえそれが、食べ終わった後の弁当箱などというゴミであったとしても。

しかも父は自身では絶対に片付けたりはしない。そのせいでゴミは溜まる一方だ。

ユキに与えられた人間らしい権利は、身体を洗うことだけである。

これだけ汚物に塗れた部屋に住んでいるというのに、父はユキの身体が汚れていることは我慢ならないらしい。

よく分からない、とユキはいつも思う。

しかしそのよく分からない権利の理由(わけ)を、ユキは父に問うたことはない。

問うたところで答えが返ってくるとは思えないし、何より聞いたところでどうしようもないからだ。

精々痣と痛みが増えるだけだろう。

だからユキは何も聞かない。ただただ棒のように頼りない手足を、身体を縮め、息を殺して抵抗せずに痛みが最小限で通り過ぎるのを待つだけだ。

そしてそれは今夜も、である。

ガチャリ、と無慈悲な音がユキの鼓膜を揺らした。

ユキは膝に埋めていた顔を僅かにあげ、玄関のドアを見つめる。その目には自身では気づかない怯えが滲んでいた。

父が帰ってきたのだ。

「ッチ、くそっ、まぁた負けちまった…」

ガサガサと今日の晩御飯であろう、コンビニの袋を鳴らし、酒焼けした濁声で悪態を吐く。

すると更に憂さが積もったのか、行き場のない怒りを散らすよう、近くにあったゴミの山を蹴りつけた。ドサドサッと、雑誌が崩折れる音が夜の帳に包まれた部屋に響く。

(きげん、わるい、な)

その音を聞きながら、ユキは電気が着く前にと急いで、しかし気配を感じさせないように顔を再び膝に埋めた。

少しでも今の父の目に自身が映ってしまえば、殴られるからだ。

だから自身は散らばる粗大ゴミだと暗示を掛ける。空気になる。

ユキが膝に顔を埋めたその瞬間、黄ばんだ黄色の電灯が灯った。

(まに、あった…)

細く細く息を吐き出す。

今日はまだ、父はユキを認識していない。

(きょうは、なぐられ、ないで、すむ…?)

余りに哀しい希望を抱いて、ユキは降りたばかりの夜の帳が明けるのをじっと待った。

お腹が空いただとか、そういうのは全て無視した。



それが起こったのはだいぶ夜が更けた頃だった。

(しまった)

眠気のあまり、ユキの身体が僅かに空気を揺らしてしまったのだ。

ハッとして、急いで気配を消すことに専念したが、すでに手遅れだった。

自分のみ晩御飯を食い散らかし、また酒を煽っていた父が酒瓶を手放してゆらりと立ち上がり近づいて来る。

「なぁんか、うるせぇのがいるなぁ…」

逆光のせいで余り顔は見えないが、酒に溺れることを阻害された苛つきと、暴力を振るう建前が出来た昂揚感で目がギラついているのは分かった。

ユキはなす術もなく固まったままだ。

そして父はそんなユキの胸元を掴み上げるとーーなんの容赦もなく殴りとばした。

「……っ、ぅあ」

コンビニ飯と大量飲酒で醜悪に肥え太った父とは正反対に、ユキのあばらがはっきりと浮き出るほど痩せ細った頼りない身体は、そんな衝撃に耐えられるはずもなく、おもちゃのように畳の上を転がり襖にぶつかり鈍い音を立てる。

辺りに放り捨てられていた酒瓶だか残飯だかが飛び散り、ユキの替えのない服を汚した。

(せっかく、あらった、ばっか、なのに……)

ユキは虚ろな瞳で、ささくれ立ちよくわからない液で所々汚れた畳の目を見ながら、そう考える。

痛みには慣れていたし、恐怖などというものはとうの昔に麻痺していた。いや、ユキには自身が恐怖を抱いているということが知覚出来なくなっているのだ。

そしてユキはそれを異常だとは少しも気づかない。気づけない。

人間は他人に指摘されない限り、当たり前というものを認識出来ないものだから。ユキにとって、それは余りに当たり前だったから。

(きょうも、なぐられ、ちゃった、な)

ただそのことに落胆するだけだ。

父の暴力は止まない。

転がったままのユキに近づき、弄ぶように蹴りを入れた。

蹴りが入るたびにユキの息は止まる。脆い骨が軋む。

「せっかく人がイイ気持ちで酔ってんのによぉ…、なぁにジャマしてんだよっ、オラッ」

「……っ、ご、めん、なさ…っ」

掠れた声での謝罪は最後まで呟かれることはない。その間にも蹴りが腹を抉るからだ。

ユキはそれでもなんとか聞かれることなどない謝罪を漏らしながら、身体を丸め、少しでもダメージを少なくしようとする。

父はそんなユキには構わない。喚く声はいつしか母の名を呼び始めていた。

「アヤカァ、どこ行きやがったぁ〜っ、この俺を捨てるなんて許さねぇぞォ〜っ」

これもいつもことだった。

父はユキに暴力を振るいながら、母に向かい呪詛を吐く。

もう10年も前に出て行った母の名を。

ユキの父は、絶対的弱者のユキに対し躊躇いなく暴力を振ってくる事からも鑑みれるに、男として最低の部類に入る。

それは何も今に始まったことではない。

父はユキの記憶にある通り、母に、女性に対して傲慢だった。容姿も今とは違い、痩せていて貌もそれなりだったから、それが更に拍車を掛けたのは想像に難くない。

しかし、いやだからこそ母に捨てられるなどと夢にも思わなかったのだ。

実際、ユキの朧げにしか残っていない母の記憶は、いつでも父に縋り付いていた。

それこそ母がいつも自慢にしていた華やかな美貌を殴られても、毎日綺麗にセットしていた髪を引っ張られても。

幼い故に母の愛を求め、甘えようとして近づくユキのことは見えないものとして無視するか、時には鬱陶しげに打つかしかしなかった母が、父に対してはどこまでも隷属的だったのだ。

母はそんなにも父が好きだったのだろうか。

しかしそうなのだとすると、ある日突然何も持たずーー元々財産などなきに等しい家ではあるがーーー出ていったことが矛盾する。

だからユキとって両親の関係は余りに複雑で、全くもって理解出来ない。

けれど父には母が出ていった理由の自覚があるのだろう。

だからこそ荒れるのだ。だからこそ、年々父よりも母に似てゆく、それでも実子であるはずのユキに対して、どうしようもなく憎悪の念を向けるのだ。

ユキの意識は霞んできていた。

(ぼく、しぬの、かな?)

11発目の蹴りが頼りない身体にめり込んだ瞬間、ユキは死を覚悟する。

元々そう遠くない未来に父に殺されるだろうという予感はあった。

母が出ていってから始まった父の暴力は、酒量が年々増えるごとに、どんどん激しさを増していた。

昔は容姿が良かったので、母が出て行った後にもジゴロ業に勤しんでいたため飲酒時間が短かったが、今は醜悪に肥えているため女は見向きもしない。

仕事をしている気配もないから、悪戯に時間が余っているのだろう。そんな男が退屈を紛らわせるためにすることは、ひたすら酒を呑むことだ。

元があまり酒に強くないらしく、すぐに悪酔いするくせに酒の量はどんどん増える。

そして酒に溺れた父はユキを母だと勘違い、いや代用品にして憂さ晴らしのサンドバックとしているのだ。

いくら痛みに鈍いユキでも、生命の危機を抱くのは何ら可笑しくないことであろう。

(でも、もう、らくに、なれる……?)

それは余りに哀しい希望で、幸せだった。

普通なら死というものは生きとし生けるものにとって、できるだけ先延ばしにしたいものだ。

特に本能の他に、理性という考える力を持つ人間には一番避けたいものかもしれない。

しかしユキにとって死は、希望であり幸福だ。ユキのこのゴミだらけの狭い世界は、ユキに対して残酷だった。

親から無償で与えられるはずの愛はなく、代わりに与えられたのは無関心を如実に映した瞳と躊躇いのない暴力。

大人でも耐え難いこの状況に、抵抗する術も知らず、一方的に搾取されるばかりのユキの心が疲弊し、死を希望と思ってしまうのは至極当然だともいえた。

しかし現実は、どこまでもユキに非情だった。

(な…に……?)

気がつくと、父がユキに覆い被さっている。

「アヤカぁ〜、脱げよ、オラ…ッ」

「……ゃっ」

小さな掠れた声しか出ない。

(これは、なに…?え……?)

逃げろ逃げろと頭の中では、久方ぶりに錆付いていた警報が鳴り出したというのに、身体は予想だにしていなかった事態に固まってしまっている。

その間にも父はユキのぶかぶかの服を胸が露出するまで捲り上げる。

ユキはサイズの合うズボンを持っていないので、服を捲り上げられると、下半身を覆うものは擦り切れた下着だけだった。

「なんだぁガリガリじゃねぇか?胸もねぇし…。アヤカァ、お前ヤりすぎだろぉ?」

薄暗い部屋のせいか自身がつけたまだらな痣には気付かずに、一目で分かるほどあばらの浮くユキの身体に父はつまらなさそうに舌打ちをした後すぐに、何を勘違いしたのかニヤニヤと下卑た笑いを漏らす。

そして何もない乳房あたりを生温い手で、撫で回し始めた。

しかしそれでもユキは動けない。ただ目を見開いたまま、悪鬼にしか見えなくなった父をじっと凝視しているだけだ。

ユキはこの行為を知っていた。

昔散々見せられたからだ。

父は母に暴力振るった後、必ずこの行為に雪崩れ込んだ。

嫌がる母を押さえ込み、服を破く勢いで毟り取り、そしてユキにほとんど与えられることがなかった乳房を揉みしだく。

慌ただしく履いていたズボンをパンツごと下ろすと、互いの腰を擦り付け始める。

すると喚いていた母の声は何時しか気味の悪い甘さを含み始め、しまいには「もっと、もっとぉっ」とせがみ出す。

擦り付けあう腰の狭間からはグチュグチュといやらしい水音が響く。

ユキは恐ろしくなって、耳を塞いで頭を膝に精一杯埋めた。

それでも嬌声は、いやらしい水音はユキの鼓膜をすり抜ける。

父と母は怯えに吐き気を催し、泣き出すのを必死に堪えるユキのことなど全く考えも、気づきもしない。

それはまさにケダモノの交わりだった。

ユキにとって、それは暴力よりもよほどトラウマになっている。

そしてその行為を、今まさに実父によって味わわされそうになっている。

(いや、だ)

いやだ、いやだ、いやだ、イヤダッ

「いやだぁ…っ!」

父の手が下着に掛かったところで不意にもの凄い力がユキに湧き上がった。

窮鼠猫を噛む。今のユキはその言葉がぴったりと当てはまった。どんっ、とありったけの力を持って、父を押し返す。

欲情に眩んだ父は、予想外の攻撃ともあってか意外なほど呆気なく突き飛ばされ、尻餅をついた。

ユキはずれた下着を急いで戻し、玄関へと走った。

「待てっ、アヤカァッ!」

足が絡んだのかもたついたままの父がユキを止めようと、凄まじい怒気を孕んだ叫び声をあげる。

しかしそんなものでは今のユキを止めることはできなかった。

ユキは無我夢中でドアノブを捻り、外へと飛び出す。

ユキにとって、10年振りの外だった。

(空気が、いたい、でも、気もち、いい)

まず感じたのはそんなこと。

次にユキの身体のを満たしたものは虐げられ続けていた父から逃れた昂揚感と、久々に感じる四季の風。

この身体の芯が凍てつくような冷たさは、今が冬だということだろうか。

狭いゴミだらけの部屋は、その雑多故に寒さというものをあまり感じさせなかった。サイズの合わない服一枚しか身につけていないユキが寒さで死なずに済んだのは、そういった皮肉があったのだ。

ユキは少しだけ視線を上げた。すると煌めく星々が目に入る。

都会の真ん中であるため、出ている星はほんの僅かだ。

しかしユキの目には驚くほど煌めいて見えた。

(おほし、さま、きれい。きれい!)

ユキは口の端に笑みを浮かべてひたすら走った。腰まで届く黒髪を振り乱し、ダボダボの服の裾を太ももに纏わりつかせて足をひたすら前に踏み出す。何も覆うものがない足の裏が、アスファルトに擦れ痛むのすら気づいていない。

(にげ、なきゃ、にげ、なきゃっ)

もう饐えた臭いと暴力に満ちた世界には戻りたくはない。この美しい世界を満喫したい。ただその精神だけだった。



無我夢中で走っていたユキだったが、しかし昂揚感というものはそんなに長続きしないものだ。ましてユキは長年閉じ込められていたこともあり、体力がないから尚更である。

しだいに柔らかな足の裏は堪えがたいほどの痛みを訴え始め、心臓もばくばくと薄い胸から飛び出すのではないかと危ぶんでしまうほどに早鐘を打っていた。喉もヒューヒューなり、渇く。

(もう、はしれ、ない)

そう思った瞬間、足が僅かな凹凸に引っかかった。

「っぁ…!」

ドサリ、とそれは見事に頭からユキは転んだ。強かにおでこをアスファルトに擦り付けてしまう。

痛みには慣れているとはいえ、いきなりは堪えた。

「…ぅ、いたたたた」

転けた体勢のまま、顔だけを上げて派手にぶつけたおでこに手を当てる。長い髪が守ってくれたらしく、血は滲んでいないようだ。

と、その時、ユキは周りの景色が違っていることに気がついた。

(うわぁ、きれい…)

黄、赤、青、緑etc……。

チカチカと溢れる色とりどりの、硬質で人工的な灯り。

着飾った人々が時折奇声のような歓声をあげながら、驚くような速さであちこちへ向かっている。

そう、ユキが無我夢中で走り着いた場所は、繁華街だった。

時刻は12時を過ぎた頃。繁華街は夜はこれからと言わんばかりに盛えている。

ユキは身体を起こし、ふらふらと灯りに魅かれる蛾のように、ネオンの洪水の中を歩き出した。

(なんで、こんなに、あかるい、の?なんで、こんなに、人がいる、の?)

子どもそのままの好奇心で辺りをキョロキョロと見回す。寒さや、擦りむいてしまった膝の痛みすらも忘れていた。

しかしユキは気づいていなかった。

自身の格好が、今の容姿がどれだけ異端であるのかを。

2月の寒空だというのに、身に纏っているのは得体の知れない液体が染み付いたサイズの合わないダボダボの服のみ。

下はズボンも、それどころか靴すら履いていない。

身体は洗っているとはいえ、服のせいでどう見ても不潔に見えてしまう上に、先ほどの父からの暴行のせいで生ゴミの臭いが移ってしまっていた。

栄養不足でパサついた、腰下まである長い黒髪は、走ったのもありぼさぼさで、しかも顔まで覆ってしまっているからどこぞの怨霊みたいで不気味だ。

今のユキは誰がどう見てもワケありだった。

そしてそんな姿のものが道を、それも酒に酔ったものや、気の荒い者が集まる真夜中の繁華街にいたらどうなるか。

(ど、どうし、よう)

避けられるか、もしくは……。

「何だぁ〜、お前?」

タチの悪い者に絡まれるに決まっていた。

ユキに絡んできたのは、よくわからない柄が前面に描かれた、やたらと派手派手しい格好をした若い男だった。

男は酒を呑んでいたのだろう、嗅ぎ慣れた臭いがユキの鼻を突く。

ユキは慌てた。

(せっかく、せっかく、にげてきた、のに)

「あ、の、そのっ」

「くっせえなぁ、折角人が気持ちよく酔ってんのに…。イラつくんだよっ」

若い男は、酒に酔った者特有の理不尽さでユキに迫ってきた。その目にはユキの父と同じく、自分に反抗出来ない弱者を甚振る卑劣な興奮が滲んでいる。

(だれか、たす、けて…っ)

必死に助けを求める瞳を辺りに向けても、道行く人々は目を逸らすか、元より目になど入っていないとでもいうように、足早にもしくは悠々と去って行ってしまう。

悲しいことだが、繁華街では日常にすぎない光景でもあった。

男はニヤニヤと下卑た笑みを浮かべると、ユキの胸ぐらを掴む。そしてもう片方の手を握ると高く振り上げる。

(なぐられ、るっ)

ユキはせめてダメージを減らそうと頭を下げ、ギュッと目を閉じた。

その時。

「邪魔だよ、アンタ」

静かな、けれど恐ろしく凍てついた呟きが聞こえた。

かと思えば次の瞬間には衝撃が起こる。

情けない声を上げたのは若い男。

「ガフォッ!」

ガツンッと痛そうな音がユキの耳を通って行った。

「きゃ、うっ」

いきなり放されたユキは、ドサリと地面に尻餅をつく。

(な、なに?なにが、おこった、の⁉︎)

あまりの急展開に頭の中が混乱しつつも、恐る恐る強く瞑っていた瞼を開ける。絡んできた男は見えない。

代わりに見えたのは、高そうな革靴に、黒い毛皮のロングコート。

さらに眼線をあげるとそこには。

(うわぁ、きれいな、男の、人!)

ユキの貧相な語彙ではそうとしか言いようがない。

しかしユキにとって最大級の賛辞を惜しみなく渡せるほど、その男の容貌は整っていた。

年の頃は二十代後半。

染めているのかいないのかは定かではないが、どちらにしても見事な、襟足が長めの白銀の髪に、色素の薄い水色の、氷のように冷たい左右対称の瞳。女っぽくはないもののそれでも影が落ちるほど長い睫毛。

鼻筋はユキと同じ人種だとは思えないほどすっと通っており、少しだけ厚めの唇が整い過ぎた容貌に人間味を添えている。

身体のバランスも完璧な八頭身で、着る者を選ぶであろう毛皮のコートを違和感なく着こなしていた。

ユキは恐怖も忘れ、ポカンと口を開けて男に魅入ってしまう。

しかし男はユキのような態度など見飽きているのだろう、つまらなさそうな目をしてユキを眺めていた。

(あ、ありが、とう、しなきゃ…っ)

暫く見惚れてしまった後、ユキはその綺麗な男にお礼を言っていないことに気づく。

立ちあがり頭を下げようとしたが、しかし身体は未だに恐怖が抜けきらないようで、なかなかいうことをきかない。

ユキはせめて顔を見てお礼を言おうと男の顔を見上げた。

とその時強い風が吹き、ユキの顔に掛かっていた髪をどかし、容貌を露わにした。

男が小さくも確かに目を見開く。

ユキはそれに気がつかないまま、懸命に口を開いた。

「あ、あの、ありが、とう、ござい、ましたっ」

男はユキの言葉にハッとしたように、身体を僅かに揺らす。

「いや、別に…。邪魔だっただけだから」

「でも、やっぱり、ありが、とう、ございま、す」

にっこりとユキは幼く笑う。

男はまじまじとユキを見て、暫し何かを考え込んだ後、口を開いた。

「アンタ、行くとこあんの?」

「いく、とこ、ろ…?」

ユキは男の言葉に、逃げ出したもののなにも考えていなかったことを思い出す。

(本とう、だ。どうし、よう)

途方にくれた表情を知らずに浮かべ、ユキは力なく首を横に振った。

すると男が、凍てついた瞳からは予想出来ない言葉を放つ。

「なら、俺とこい」

「え……?」

ほら、と躊躇いなく手を掴まれ、男はユキを立ち上がらせてしまう。

たたらを踏みながらも、ユキは何とか地を踏みしめた。

男はザッとユキの全身を眺めると、ポツリと呟く。

「まずはアイツのとこか…」

少しだけうんざりしたようにため息を吐き、さっさと踵を返し、歩き始めてしまう。

手を握ったままだったので、つられてユキも足を動かす。

「あ、」

「? なんで、すか?」

「俺の名前。ミヤビ。ミヤビだから」

「ミヤビ、さん」

繰り返すと、胸の奥がホワッとする。

(なん、だろう、これ……?)

嬉しくて、くすぐったくて、けれどどこかキュウッと絞られるような不思議な感覚。

ユキの17年の人生の中で初めての経験だった。

ミヤビは告げるだけ告げると、後は前を向いたままだ。

ユキは斜め上にある美しい顔を見上げると、自然と頬を緩ませる。

少しだけ手を強く握ると、ミヤビは握り返してくれた。

それだけでどうしようもなく、嬉かった。



この時ユキはただただ初めての感情に舞い上がっていた。

だから忘れていたのだ。



ーー運命は残酷で、いつもユキに優しくないことを。




ミヤビに手を引かれて着いた場所は、繁華街の奥、少しばかり汚れた無骨なコンクリートの建物だった。

時間が時間だから、建物内に灯りは点いていない。

しかしミヤビはそんなことを気にした様子もなく、優雅な、しかし遠慮ない足取りで中へと踏み込む。ユキも困惑したまま薄暗い部屋の中へと続いた。

(ふしぎな、にお、い)

ユキの鼻を少しツンとする、けれど不快ではない匂いが掠める。

「ミヤビ、さん。でんき、ついて、ない、よ?」

「気にするな。…スイッチはこれだな」

勝手知ったる何とやらで、ミヤビはパチンと電気を点ける。ジッという音がしたかと思うと、白っぽい灯りに照らされて部屋の内部が露わになった。

(ここは、おいしゃ、さん?)

ユキの脳裏に、遠い昔に一度だけ連れて行ってもらった病院の風景が浮かびあがる。

ここはそこにとても似ていた。

余り広くはない部屋だ。

部屋の中には一つだけだが薄青のカーテンに囲われた清潔なベッドと、備え付けの棚に整然とカルテが並べられたデスク、それだけ浮いて見える豪華な背もたれ付きのデスクチェアの前には、小さな丸イスがある。

ユキの薄れた記憶とは少し違っているが、それでも粗方特徴は一緒だから、恐らく合っているはずだ。

きょろきょろと部屋を見回すユキとは対称的に、ミヤビは壁に凭れて、声を発する。

「ゴウ」

決して大きな声ではないのに、よく通るミヤビの声が部屋に響く。

するとトントンと階段を降りる音がして、奥の引き戸がガラガラ、と開かれた。

「こんな時間になんですか、ミヤビさん」

うんざりした様子を隠そうともせずに、白衣を着た不機嫌な男ーーゴウが姿を現わす。

「別に起きてんだからいいだろ」

片方の口の端だけをあげ、ミヤビが不遜に嘯く。ゴウの不機嫌さなど、気にした風もない。

そんな時ユキはと言えば、

(わ、また、きれいな、人)

1日に二人も綺麗な男を見たことに、純粋に驚いていた。

ゴウもまた、大変整った容貌をしている。

と言っても、ミヤビとはベクトルの違った美しさだ。ミヤビが男性的な美しさなら、ゴウはその勇ましい響きの名前には似合わない、どちらかと言えば女性的な美しさを持っている。

カラスの濡羽色という言葉が、これほどしっくりくる者は他にいないだろうと断定できるほどに癖のない見事な黒髪。

肌は透き通っており、色も白い。フサフサと風を起こせそうなほど豊かな睫毛と瞳は髪に順じた色で、顔立ちはミヤビと同じく左右対象だが、より繊細だ。

もしミヤビとの類似点を挙げるとしたら、年の頃、八頭身のプロポーションと上背、瞳が凍てついた印象を与えると言ったところか。

そんなゴウは、ミヤビの言葉にため息を吐き、にっこりと綺麗に笑う。しかし纏う空気はかなり冷たい。

「呆れた……。相変わらずですね、ミヤビさん」

「ハッ、そりゃアンタもだろ」

ミヤビも応戦するように、壁から身体を離し、あからさまに嘲った態度で嗤い返した。

(なか、わるい…?とめた、ほうが、いいの、かな……?)

険悪な雰囲気にユキは、オロオロと青白い火花を散らし合う二人を見上げる。

とその時、ゴウはユキの存在に気がついたらしい。

「ん? 誰ですか、この子?」

「っとそうだ、コイツ見てほしくてここに来たんだ」

ミヤビにくしゃりと、少しだけ強い手で髪を撫でられる。

(ミヤビ、さんは、ぼくの、こと、きたない、って、思って、ない)

先ほど絡まれたのもあり、ユキは自身の姿が人を不愉快にさせてしまうことに気がついている。

それでもユキの頭を撫でるミヤビの手に躊躇いはなかった。そのことに勇気を得たユキは、おずおずとゴウに近づく。

(ミヤビ、さんの、ともだち、なら、きっと、だいじょう、ぶ)

ユキの信頼は既にミヤビに傾倒していた。

そしてその信頼が裏切られることはない。

「おや、膝を派手に擦りむいていますね…。痛かったでしょう?消毒しましょうね」

ゴウは背後に纏っていた冷たい雰囲気をあっという間に消去り、相手を無条件で安心させる温かい微笑みをユキに向けてくる。

ユキはその微笑みに強張っていた身体を緩めた。

だいじょうぶ、この人はこわくない。

「ミヤビさん、そこの棚の中にある精製水取ってください」

丸イスにユキを座らせながら、ゴウはミヤビに指示を出す。

ミヤビは片眉を上げ、肩を竦めはしたものの、大人しくゴウの指示に従った。

「沁みますよ。少し我慢して下さいね」

先にそう言い置いてからゴウは躊躇いのない手つきで、汚れたまま放置されていた擦傷に精製水をかける。

ユキは刺激にびくりと肩を震わせたが、呻き声もあげない。

(だいじょう、ぶ。さっき、とうさん、に、けられた、ときより、いたく、ない)

とは言っても、痛みが身体を襲えば身体は固くなるものだ。

ゴウが苦笑して、ユキに優しく告げる。

「痛かったら我慢しないで声出してもいいんですよ?」

傷口に大きな絆創膏を貼ってもらいながら、ユキは心配させたくない一心で笑顔を浮かべた。

「だいじょう、ぶ、です。さっきより、いたく、ない、から」

「……さっき?」

ユキの言葉を不審に思ったのか、ゴウが眉を寄せ、ミヤビを見る。

ミヤビは再び肩を竦めた。と同時にユキの方に視線を向け、尋ねる。

「そういやなんで、こんな夜中に外出歩いてたんだ?」

「お前どう見ても未成年だろ」とミヤビは首を傾げた。

ユキはミヤビを伺うように、そろそろと口を開く。

「え、えと、とうさん、が、こわく、て……」

つい先ほど父に襲われたことが、ユキの脳裏に蘇る。触られた肌が鳥肌をたて、喉元に酸っぱいものが上がり、無意識に身体が震えだす。髪の毛のせいで見えないが、顔色も悪い。

それでもどうにかして状況を説明しようとする健気なユキに、ゴウが首を横に振った。

「いいですよ、無理に話さないで」

「でも……」

「それよりも、できれば服を脱いでもらえますか?せっかくです、見ておきましょう」

「ね?」と優しく、けれど抗えない空気を出しながらゴウが促す。

ユキは頷き、大人しく服を脱いだ。

話が逸れたことに正直ホッとしたのは仕方がない。

だからこそ、気づかなかった。ミヤビとゴウ、大人二人の表情が強張ったことに。

ユキの身体には、無数の痣が広がっていた。付いたばかりだろうどす黒い青紫から赤、少し日にちが経ち変色した黄緑、茶色まで。

まるで水彩絵の具を好きなようにぶちまけて作られた画面のようだ。

それは背骨や肋骨の隙間が見えるほど肉付きの薄い身体と相俟って、より悲惨さが増して見える。

唯一幸いなのは、両親のどちらもが煙草を吸わなかったので、煙草を押し付けられた跡がないということだろうか。

「お前、それ……」

「? どうか、しまし、た、か?」

あまりに淡々と、何の感慨もなさそうに自分の肌を見下ろすユキに、辛そうに顔を歪めたゴウが手を伸ばして、頭をそっと慰撫するように触った。

「痛かったでしょう……?骨が心配ですから、少しだけ我慢して触らせて下さい」

ユキはゴウの言葉に素直に頷き、されるがままになる。

ゴウは慎重な手つきで、ユキの身体の無事を確かめた。

「……幸いにも、骨は折れていないようです。内臓も無事なようだ。……本当に、良かった」

心の底から安堵したのだろう、ほぅ…というため息がゴウの口から漏れる。

その様子にユキは首を傾げた。何故だろう、ユキの身体の無事だけではない何かを含んでいるため息だと思ったのだ。

「ゴウ、さん。なんで、そんな、つらそう、なんです、か?ぼく、だいじょう、ぶ、です、よ?」

そう言ってまた笑おうとするユキに、ゴウが顔を歪め、何か告げようと口を開こうとする。

しかしその前に挟まる声があった。

「馬鹿、大丈夫なわけ無いだろ。痛いなら、痛いって言え。辛いなら辛いって言え!俺は、俺たちはそれを許すから」

ミヤビはそうまくし立てると、強引にユキの身体を自分の身体へと押し付けた。

ユキの視界が、ミヤビの銀色のスーツに染まる。ふわりと漂ったのは、刺激的で少しだけ甘い香水の匂いだ。

始めユキは呆然としていた。

こんなにも強く誰かに抱きしめられたことなどない。痛いや辛いを口にすることを許されたこともない。

(いい、の?)

ユキの心の声を聞いたかのように、ミヤビの抱擁が強くなる。

ユキの頬を温かい何かが溢れ落ちた。

(これ、は、なみ、だ?)

自覚した途端、次から次にぼろぼろと、とめどなく溢れ落ちていく。

「……っ、うぇ、うわぁん…っ」

もう我慢はできなかった。

全然『だいじょうぶ』じゃなかった。

ユキは本当は辛かったのだ。痛いのも大嫌いだった。狂った父となんかいたくなかった。ーー誰かに助けて欲しかった。

ミヤビに縋り付き、溢れ出る嗚咽を止める術も知らないまま、ユキは泣き続ける。もうどんな思いも言葉にはならない。

ミヤビのスーツに皺が寄ることも、涙でグチャグチャになってしまうことにも気にすることはできなかった。

そしてミヤビもそれを許した。

狭い診療所内に、ユキの魂の慟哭が響いた。



「…んく、すいま、せん……」

泣いて泣いて泣き切って、ユキはようやくミヤビの胸元から顔を上げた。

こんなに泣いたのは初めてと言っていいほどだったので、頭がクラクラする上にまだ身体は吃驚していて、胸も息もドキドキしている。けれど気持ちはこれ以上ないほどすっきりしていた。

まるで生まれ変わったような気さえする。

今まで胸に詰まっていたものが全部涙とともに流れていったようだ。

少しだけ恥ずかしくて、頬を泣いたからだけではない赤で染めながら、ユキはミヤビを見上げる。

ミヤビは何も言わず、またくしゃりと頭を撫でた。先ほどよりも、強くけれど優しい手だった。

「落ち着きましたか?これ、スポーツドリンクです」

静かに見守ってくれていたのだろうゴウが慈愛に満ちた表情で、紙コップに入れた飲み物を渡して、立ち上がったままだったユキを座るよう促す。

ユキはお礼を言って、丸イスに腰掛けてありがたく飲み物を頂戴した。

ゆっくりと水分を摂取していると、何かを思い出した風に、オフィスチェアに戻ってカルテを書いていたゴウがユキの方を振り返る。

「そういえば、あの擦傷は転けたのですよね?頭は打ちませんでしたか?」

「あ、おでこ、うち、まし、た。でも、ち、でてない、です」

「見せて下さい。頭は打つと恐いんですよ」

ゴウは子どもに言い聞かせるように、少しだけ茶化して言った。けれど瞳には安じた色が滲んでいる。

ユキはゴウの言葉に従い、顔を上げてゴウに額を向けた。

ゴウは注意してユキの顔を覆う黒髪を左右に分ける。そして、眼を見張った。

「これは……」

ゴウはさっと、ユキの顔から視線を再び壁に凭れ空を見ていたミヤビへと移す。

分かっているはずなのにミヤビから反応はない。素知らぬふりだ。

「どうか、しました、か?」

「……いえ」

「少しだけ腫れていますが大丈夫そうです」とゴウはユキの疑問を払拭するように頷いた。

ユキはゴウの一連の仕草に首を傾げながらも、まあいいやと納得する。

話を切り替えるかのように、ゴウが口を開いた。

「…そういえばまだ、ちゃんと自己紹介していませんでしたね。この診療所の医師でゴウと申します」

「はい、ゴウ、さん」

にっこり笑って名前を繰り返した。

ユキはゴウがいい人であると、確信している。

今までの態度や本能がそう告げているのだ。

こう見えて、ユキの勘は鋭い。

証明するように、ふふ、とゴウも笑みを返してくれた。その細まった瞳には本心からの温かさが滲んでいる。

「貴方は、なんと言う名前なのですか?」

「ぼく、はユ「シノだ」

「ユキです」と名前を言い終える前に被さる声があった。何てことはない、ミヤビだ。

「ミヤビさん……」

非難を多分に含んだ声音でゴウがミヤビの名を呼び、睨む。

先ほどまでその美しい顔には柔らかな笑みが浮かんでいたというのに、今は深い皺が刻まれていた。

ミヤビは壁から身体を離し、ユキの元へと近づきながら、言い聞かせるにもう一度告げる。

「シノ、だ。コイツの名前は」

何か文句あるかとばかりに、ゴウを、そしてユキを見下ろす。

ユキは困惑した。

(ぼくは、ユキ、だよ?)

ユキの困惑は余りにも分かりやすく表情にでていたのであろう。

ミヤビはユキの目線の高さに合わせ、しゃがみ込んだ。膝をつくことに抵抗など感じないらしい。

「今までの名前でしんどい思い、したんだろう?ならそんな名前、捨ててしまえばいい。これからお前はシノだ」

「な?」とまっすぐにユキの目を見てミヤビは言い切った。

力強いミヤビの言葉にユキの瞳は揺れる。

名を捨てるということは、それまでの人生を捨てるということだ。

つまり、相当の覚悟がいる。

しかしユキの人生は捨てるのを惜しむようなものだったのだろうか。

『ユキ』としての人生は、散々だったと断言してもバチは当たらないはずだ。

教育はおろか、まともにご飯にすらありつけず、両親からは愛情をもらえなかった17年の日々。

死なないだけマシという意見があるかもしれないが、ユキの人生は生きながら死んでいたようなものだ。自分の意思など持つだけ虚しく、最近では考えることを放棄していた。

それが果たして生きていると言えるのか。

今、ほんの少しだけ自由を知ったユキは大きな声でこう答える。

「ちがう!」と。

だから、ミヤビの提案は途轍もなく甘美で、誘惑的だった。

何よりミヤビの言葉には躊躇いが、迷いがない。無知ゆえに純粋なユキが、ミヤビの魔力ともいえる言葉に抗えるはずはなかった。

(これは、ミヤビ、さん、からの、プレゼント、だ)

ユキの脳裏に突然そんな考えが舞い降りた。

ユキは一度もプレゼントというものをもらったことがない。しかしどうしようもなく笑い出してしまいそうなこの胸の高揚は、嬉しいことをしてもらった時のものではないか。

ならばユキはプレゼントを受け取りたかった。

それもユキを地獄から救いあげてくれたミヤビからだ。その思いはますます強くなる。

そうこれは、一度もプレゼントをもらえなかったユキへの、最初にして最後のとびきりのプレゼントだ。

「わかり、ました。ぼくは、『シノ』です」

ユキはミヤビに向かって頷いた。

「ああ」

満足気にミヤビが口の端を上げる。

きれいだ、とユキは思った。どうしようもなく綺麗だと。

「……いいのですか?」

苦々しそうに二人を見ていたゴウが、念を押すようにユキに問う。引き返すなら今ですよと、暗に教えている。

そんなゴウの問いに、ユキはとびきりの笑みを返した。

「はい!」

その表情には憂いも、躊躇いも、少しも見当たらない。

迷いなどもうどこにもないのだ。

ゴウはやるせなさそうにため息を吐きーー何も言わなかった。



ーーーこうして2月の寒空の中、星が輝いていたこの日、『ユキ』は死に『シノ』として生まれ変わった。

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